
絵は「勉強」するものなのか?という話
あの人みたいにもっと上手く描けるようになりたい。ああ、どうして自分はこうも描けないんだ。。もっと勉強しなきゃ!
そんなふうには思うものの、努力して上手くいったことがあっただろうか。うん、ありません。
いま一度、要約してみます。
「絵が上手くなるためには、勉強しなくてはいけない」
要するにこの命題、真かということです。
何となくその手の教科書に書かれてることを挙げてみます。
- もののカタチや陰影を正確に捉えるにはデッサンを学ぶ必要がある
- 奥行きを出す表現をしたければ、パースを学ぶ必要がある
- 人物の表情や動きを思い通りに表現したいのなら、筋肉や骨格を学ぶ必要がある
- そして、それらを座学だけにとどめず、実践して学ぶ必要がある
- etc..を学ぶ必要がある
やばい、学ぶ必要だらけになりましたw
この「学ぶ」という言葉を「勉強」と捉えるとしたら、絵が上手くなるためには、勉強する必要があるというのは、どうも本当らしいです。
しかし僕はどうもこの「勉強」という言葉がダイッキライです。思い返せば勉強には心底嫌な思い出ばっかり。
そもそもこの言葉は「勉(つと)めて強いる」本来は気が進まないのに仕方なく頑張るという意味ですから、あんまりにも酷な話です。
上達であったり表現の幅を広げるためには、どうしても描き続けて色々と学ぶことが必要ですが、その時間は絶対に楽しくなくてはなりません。
なぜかって?
楽しめないことは続かないからです。
かれこれ5年くらい前に、このことに気づいた僕は、それ以降「お絵描きは全力で楽しめ」という意識を元に、全力で楽しむようあらゆる工夫をしながら描くようにしています。結果、技術的成長はカメ並のスピードではあるものの、描くこと自体苦であることが格段に減ったので、一枚の絵を描き切って、それを繰り返し継続できる馬力みたいなものが根付いてる自信はあります。
さて、話を戻します。
絵というものは勉強しなくてはならないのか、ということですが、少なくとももう「勉強」という言葉は適切でないことが分かりました。
じゃあどういった表現をすればいいんでしょうか。けっこう前にオープンソース開発者の小飼弾さんが「プログラミングを学ぶに必要なのは学習力でなく『楽習力』だ」と提唱してたウェブ記事があって、この「楽習力」という言葉がとても印象に残っています。
楽習力。楽に、楽しく。良いですね、とても良い。
絵を描くことも楽習力じゃないでしょうか。
これさえあれば、ずっと絵を描き続けることが出来ると思います。もうデッサンが狂ってるとか、パースがおかしいとか些細なことで落ち込む心配もなくなると思います。
えーじゃあ具体的に楽習力って何よ?とツッコミたくなったでしょうか。
うん、それはいま頭の中でまとめてるからもう少し待ってください、ね。